新年の御挨拶申し上げます

皆様、新年あけましておめでとうございます。

除夜の鐘の後、本堂で檀信徒の皆様と共に御本尊様の御宝前で新年を迎えられたことは誠に有り難いことでございます。

そして皆様に新春の御挨拶が出来るということは、住職としてとても嬉しいものです。

昨年はコロナの流行の真っ只中でしたから、除夜の鐘、そして新年祝祷会を共に

中止せざるを得ませんでしたが、過去のことを思い返してみても私が知る限りでは初めての出来事でした。

 

直接お会いしたり、ブログのように文章にしたりやり方は色々ですが、

「挨拶」はどれも素晴らしいものですね。

そして今日は新春の御挨拶でも使いましたが

「おめでとうございます」という御挨拶は特に良いことばであると感じます。

 

挨拶をするときというのは、何かの始まりや終わり、会うとき別れるときなど何かを区切るときにケジメとして使います。

我々日本人は「けじめ」というものをとても大切に致します。

けじめの文化というものですね。

ついさっきまで令和三年の大晦日だったのに、年が開けた途端気持ちが入れ替わります。

 

大晦日は一年の締めくくり、世間様に恥ずかしくないように準備や挨拶などで飛び回ったり、新年を迎えるために掃除をしたり片付けをするものです。

それがひとたび元旦を迎えますと、今までのことは水に流し新年からは新しい気分で身も心も一新してまた頑張るという、素晴らしい文化だと思います。

 

除夜の鐘や初詣など参詣頂きましたことや、当山のサイトをご覧頂くことで、仏様とのご縁が出来ました。

素晴らしいことです。

 

更にいえば、一緒に列に並んだ方や、たまたま横に座っている方、SNSで「いいね」を一緒に付けて下さった方とも少なからずご縁が出来ました。

これも大変素晴らしいことです。

 

袖振り合うも多生の縁と申しますが、もしかしたら今年このご縁が大きく実を結ぶこともあるかも知れません。楽しみです。

 

このご縁というのは「関わり」のことですから、周りの人や起こった出来事とどの様に関わってゆくのか?

その関わり方次第で自分自身を変えることが出来るのです。

特に良いご縁を頂きますと、それだけで素晴らしい方向に変化して行くことが出来るのは間違い有りません。

逆にあまり良くないご縁ですと、前向きに良い方向へは行かないようであります。

 

ただこの「ご縁」というのはただの自然の成り行きではございません。

御縁の中心は自分・自己の心がすべてを決めているのです。

特に今という時代は良くも悪くも大きく変化が求められる時代でもありますから、自分で判断してゆくことが今まで以上に大きな意味を持つようになってゆきます。

「自分の意見を持つ」ことの大切さがより重要になってくるわけです。

 

だだ、自分の意思で大切な物事の行く末を決めるというのは、誰しも迷うものでもあります。

どっちが正しいのか?どうするべきなのか?

明確な答えがない正解のない判断をすべきときこそ大切になってくるのが、

正しい信仰というものです。

 

仏様の教えというのは真理ですから絶対に間違いの無いものです。

迷ったときこそ仏様の声に耳を傾け、その上で自分の意思で正しい判断をしてゆくこと。

正しい価値観を持つ事!

これが大切なのです。

 

除夜の鐘や初詣、また新年のお墓参りやお仏壇への回向は、ただの新春のお参り、御挨拶というだけでなく、

自分自身の心の中に改めて正しい信仰を持ち、人間らしい生活をするぞ、という気持ちを御本尊様やご先祖様に誓う一年の最初のけじめの法会なのです。

この令和四年、皆様のご多幸を心より祈念申し上げると共に、

それぞれの夢、それから希望をお持ちのことと思いますが、それを実現させるためにもなお一層の精進・努力をお願い致しまして

新春の御挨拶とさせて頂きます。

 

合掌

妙覺山大泉寺 住職 遠藤是真

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