プロの仕事

00270703-000237.jpg

00270703-011630.jpg

皆さんは「高座説教」をご存知でしょうか?
日蓮宗独特の法話の仕方なのですが、落語の原点とも言われています。
高座説教について詳しくはまたの機会にご紹介致します。

私(副住職)の属する日蓮宗静岡県中部布教師会では現在、高座説教の教則DVDを製作中なのですが、昨日はその撮影を行いました。

私は裏方での参加となりますが、業者さんとの打合せや、撮影の仕方を拝見させて頂きますと、プロの仕事を間近で見るということは、違う職業でも色々と勉強になります。

ほんの数秒のシーンでも、じっくり時間をかけて妥協せず何テイクも撮影するのはとても神経を使います。
トータルでも数十分の動画で、撮影に3日掛かる事となりました。

普段何気なく観ているドラマや映画も、途方もない時間と手間をかけているのがよく解ります。

そういえば、我が家の三つ子を授かり産まれたときも、TV局から取材に来てましたが、私の横で何日かずっとカメラを回してましたが、実際に放映されたのはほんの数分でしたね。

スポーツ選手なども試合の為に練習を重ねます。
イチロー選手は天才と呼ばれる事を嫌うそうですが、天才という言葉が努力の積み重ねを否定するような気分になるのかもしれません。

我々僧侶も日々修行を積み重ねておりますが、僧侶にとって成果の披露の場というのは何処にあるのか?
お説教というのも披露の場ではありますが、お説教をするのも言説修行という修行のひとつでもあります。

学生時代、私が住み込みで修行生活をさせて頂いた日蓮宗宗立谷中学寮の当時の寮監・菅野先生がよく仰られておりました

「谷中学寮では細かいルールのようなものは決めません。ここで生活を共にする皆に守っていただきたいのは、ただ、僧侶たれ!」

これは「僧侶たれ」という言葉に全て込められています。
僧侶らしい生活を自分自身で考えて行動しろという意味です。

高座説教という優れた技術を、活かすも殺すも我々説教師の資質次第で、同じ言葉を同じように発しても、説得力に差が出るのはそういう「僧侶たるか」どうか。
ステレオタイプな僧侶像を体現するのではなく、個性を活かしながら言葉遣いや細かい仕草にも気を配り、その積み重ねが説得力を生むのでしょう。

久々に高座説教の所作に触れ、初心に帰って色々と考える事ができました。

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください